今日、趣味程度に投資している米国株の配当金が入りました。
わずかな金額ですが、嬉しいと感じました。
ええ、インデックス投資が最善・最適の解だ!というブログを散々書いておきながら、米国個別株を僅かながらに保有しています。
最も合理的な投資手法は何かという問いの答えは既に出ています。
時価総額加重平均型インデックス・ファンドへの投資です。
また配当を再投資することで複利効果を得るのが最善です。
では、高配当株に投資して配当金をエンジョイするのはいけないことなのか?
だけど配当金をもらうと嬉しいですよね。
人間はいつも合理的とは限りません。
- 配当金を出す個別株なんて非効率的な投資は許容できないから配当が出ても嬉しくなんかない!
- むしろ配当で投資効率が落ちるから嬉しくない!
上記のような合理的な方は、回れー、右!
というわけで
と言ったことを考えてみます。
自分の不合理さと資産運用の合理性との間に上手く折り合いをつけて投資していくというのがいいのでは、というのが僕の結論です。
配当金をもらうと嬉しいのは何故か?
配当金をもらうと嬉しいのはなぜでしょうか。
考えてみました。
配当金は自由だから嬉しい
配当金は、自由だー!
いきなりの犬井ひろしで失礼しました。
配当金は自由です。
配当金は、使い道が自由で、縛られません。
だから、嬉しい。
配当金はもらった実感が得られる
配当金はもらった実感が得られます。
自由に使えるからです。
ということが具体的に考えられるので、実感も湧いてきます。
ところがインデックス・ファンドの残高は、どんなに増えようが、取り崩して自分の口座に資金移動しないと使えるようになりません。
偉い人がこんなことを言うと、おいそれと株を売ることにも心理的な抵抗感が生じます。
ていうか証券口座のインデックス・ファンドの残高とか、所詮液晶ディスプレイ上の光の明滅でしかないじゃないですか(暴論)。
配当金はそういうこととは無関係に自由が手に入ります。
だから、嬉しい。
配当金は経済活動参加の実感が得られる
株式投資というのは、企業の発行した株式を購入することを通じて経済活動に参加する行為という側面を持ちます。
株式リターンは、株主として出資する=生産活動に対するリスクをとることに対する見返りです。
配当金は、株を保有している限り、会社の経営が上手くいかなくなったということでも生じないなら寝てても入ってきます。
このことが、
という実感を与えてくれます。
翻って証券口座のインデックス・ファンドの残高とか、所詮液晶ディスプレイ上の光の(略)
配当金は、経済活動に参加している実感を与えてくれる。
だから、嬉しい。
不合理な人間の投資との付き合い方
インデックス・ファンドへの投資が最も効率よく資産運用ができる最適解であることは、頭では理解しています。
しかし、人間いつも合理的とはいかないですよね。
たまにこんな人を見かける気がします。
インデックス・ファンドが一番合理的なのに受け入れられない!
これが本当に正解なのか疑心暗鬼になってしまって続かない・・・
私はやっぱり投資に向いてないんだ!
だけど、いつも合理的である必要は無いのではないでしょうか。
人間は不合理な生き物であることを受け入れて、資産運用とも上手に付き合っていきたいものですよね。
行動経済学によれば、人間は合理的ではないそうです。
昔、『予想通りに不合理』なる本が流行って行動経済学のブームに火をつけました。
自分の不合理さと上手く付き合っていくために、読んでみようかなと思いました。
まとめ:不合理であっても配当金は嬉しい
不合理であっても配当金は嬉しいです。
長い人生、黙々とストイックにインデックス・ファンドだけを積み立てることのできる人はすごいと思います。
たまには配当金をエンジョイしたいじゃないですか。
そんな考えで僕は米国個別株を僅かに保有しています。
これからも続く長い人生です。
自分の不合理さと資産運用の合理性との間に上手く折り合いをつけて生きて行くのがいいのかな、と思いました。
それでは、また。
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